エヴェネプールのコーチ交代は何を意味するのか。ワールドチームで始まった“勝利システム”の争奪戦。
ツール・ド・フランスを前に、レムコ・エヴェネプールのコーチング体制が変わった。
レッドブル=ボーラ=ハンスグローエでエヴェネプールの調整に関わってきたダン・ロランは、ツール後にチームを離れ、リドル・トレックへ移る予定となっている。リドル・トレックは、ロランが8月1日付でHead of Performanceに就任し、コーチング、栄養、健康、回復、アスレチック、データ・AIまで統括すると発表している。
ただし、エヴェネプールのトレーニング体制は、ツール後まで完全に据え置かれたわけではない。5月13日、レッドブル=ボーラは、元ヴィスマ・リースアバイクのティム・ヘームスケルクがコーチングスタッフに加わったと発表した。ヘームスケルクはジョン・ウェイクフィールドの下で、一部ワールドツアー選手のトレーニング管理を担当する。
その後、6月には、ヘームスケルクがエヴェネプールのトレーニングを担当すると報じられた。つまりエヴェネプールは、ツールを前に、ロラン体制からヘームスケルク体制へ移行する過程にある。
一見すると、これは一人の有力選手をめぐるコーチ交代にすぎない。だが、この動きの裏側には、現代ロードレースで起きている大きな変化がある。
ワールドチームはいま、選手だけでなく、選手をグランツールで勝てる身体へ仕上げる人材を取り合っている。強い選手を獲るだけでは足りない。強い選手を、3週間崩れずに走らせる仕組みを持てるかどうか。そこに、現代ロードレースの差が出始めている。
この記事のポイント
- エヴェネプールはツール前に、ロランからヘームスケルクへコーチ体制の移行が始まっている
- ヘームスケルクは、ヴィスマでヴィンゲゴーを見てきた実務型コーチである
- ロランはツール後にリドル・トレックへ移り、パフォーマンス部門を統合する立場になる
- 現代ロードレースでは、選手だけでなく「勝てる身体を作る人材」の価値が高まっている
エヴェネプールのコーチはなぜ変わったのか
エヴェネプールは、スーダル・クイックステップ時代にコーエン・ペルグリムと長く組んできた。
しかし、レッドブル=ボーラへ移籍したことで、彼は新しいチームのパフォーマンス体制に入ることになった。その中で重要な役割を担ったのが、ダン・ロランである。
ロランは、レッドブル=ボーラのパフォーマンス部門を支えてきた人物であり、ロードレースだけでなくトライアスロン界でも知られる持久系コーチだ。リドル・トレックの発表でも、ロランは複数のアイアンマン王者を支えた人物と紹介されている。
ところが、そのロランがツール後にチームを離れることになった。
そこでレッドブルが迎えたのが、ティム・ヘームスケルクである。
ヘームスケルクは、ヴィスマ・リースアバイクでヨナス・ヴィンゲゴーを長年見てきたコーチだ。ヴィスマ全体のパフォーマンス責任者ではないが、ヴィンゲゴーを直接支えてきた実務型コーチであり、ツール総合を勝つための現場知を持つ人物である。Cyclingnewsは、ヘームスケルクが2019年からヴィンゲゴーに関わり、ツール連覇やブエルタ制覇に関与した人物として整理している。
つまり、エヴェネプールの周辺では、次のような流れが起きている。
| 時期 | コーチング体制 |
|---|---|
| クイックステップ時代 | コーエン・ペルグリム |
| レッドブル加入後 | ダン・ロランが関与 |
| 2026年5月以降 | ヘームスケルクが加入し、移行開始 |
| ツール後 | ロラン退団、ヘームスケルク体制へ |
これは、単なる担当変更ではない。エヴェネプールを、ツール総合を狙える身体へどう作り替えるか。その試行錯誤の一部である。
ロランはリドル・トレックへ向かう
ダン・ロランの移籍先は、リドル・トレックである。
リドル・トレックは近年、大型補強とチーム再編を進めている。選手だけでなく、首脳陣やパフォーマンス部門にも投資し、ワールドツアー上位を狙うチームへ変わろうとしている。
そこでロランは、Head of Performanceとして加わる予定だ。

この肩書きは、単なる個人コーチとは違う。トレーニング、栄養、回復、健康管理、データ、AIまで含めたパフォーマンス部門を統合する立場である。リドル・トレックは、ロランがCrivit Performance Centerにも関わる体制を発表している。
言い換えれば、リドル・トレックは「有名コーチを一人獲った」のではない。チーム全体の勝利システムを設計できる人材を獲得したのである。
これは、現代ロードレースにおける補強の意味が変わってきたことを示している。
昔の補強は、主に選手だった。
強いエースを獲る。強いアシストを集める。タイムトライアルの得意な選手を揃える。
だが今は、それだけではない。
強い選手を、さらに強くする人材。
強い選手を、3週間壊さずに走らせる人材。
強い選手の能力を、グランツールで勝てる形に変換する人材。
そうした裏方の価値が、以前よりもはるかに高くなっている。
レッドブルはヘームスケルクで穴を埋める
ロランが抜けるレッドブル側も、当然ながら手を打った。
その一手が、ティム・ヘームスケルクの加入である。
ヘームスケルクは、5月にレッドブル=ボーラのコーチングスタッフへ加わった。公式発表では、ヘッドコーチのジョン・ウェイクフィールドの下で、一部ワールドツアー選手のトレーニング管理を担当するとされている。
ただし、その実績は重い。
ヘームスケルクは、ヴィンゲゴーを長年見てきた人物として知られている。ヴィンゲゴーがツール・ド・フランスを勝つ総合エースへ成長していく過程に、現場のコーチとして関わってきた。
レッドブルが得たのは、ヴィスマの組織そのものではない。
だが、ヴィンゲゴーを3週間戦える身体へ仕上げてきた実務知の一部である。
エヴェネプールにとって、これは大きい。
エヴェネプールは、タイムトライアルとワンデーではすでに世界最高級の選手である。一方で、ツール・ド・フランスの総合争いでは、ポガチャルやヴィンゲゴーと比べて、3週間の山岳総合力に課題があると見られてきた。
そのエヴェネプールに、ヴィンゲゴーを知るコーチが加わる。
これは、単なる人事ではなく、エヴェネプールを「ツール総合仕様」に近づけるための補強と見ることができる。
これはコーチ争奪戦というより、玉突き人事である
ただし、ここで過度に煽る必要はない。
今回の動きは、「世界中のチームがコーチを奪い合っている」というより、現実には玉突き人事に近い。
ロランがレッドブルを離れ、リドル・トレックへ移る。
その穴を埋めるように、レッドブルがヘームスケルクを迎える。
ヘームスケルクは、その前にヴィスマを離れていた。
さらにヴィスマからは、Head of Racingのグリシャ・ニールマンがリドル・トレックへ移る可能性も報じられている。
つまり、複数のトップチームで、スタッフの再配置が連鎖的に起きている。
だが、この玉突き人事が重要なのは、動いている人材の種類が変わってきたからだ。
かつて目立つスタッフ移籍といえば、スポーツディレクターやGMだった。レース中の作戦を担う監督、チーム編成を決める責任者、スポンサーや選手獲得に関わる幹部が中心だった。
いま動いているのは、それだけではない。
パフォーマンス責任者。
個人コーチ。
栄養、回復、データ、トレーニングを統合する人材。
つまり、選手の身体を作る側の人材が、チーム間で重要な意味を持ち始めている。
なぜコーチがここまで重要になったのか
ツール・ド・フランスで問われるのは、一日だけ強い身体ではない。
3週間の疲労の中で、5時間走った後にも山で高出力を出せるか。
胃腸を壊さず糖質を入れ続けられるか。
体重を落としてもパワーを維持できるか。
暑さや移動で崩れず、3週目にまだ踏めるか。
この能力は、単に走り込めば自然に身につくものではない。
高地合宿、ピーキング、糖質摂取、腸トレ、睡眠、HRV、暑熱対策、回復、データ分析。そうした要素を統合し、選手ごとに最適化する必要がある。
だから、現代のコーチは単なる練習メニュー係ではない。
選手を3週間崩れない身体へ仕上げる、持久系パフォーマンスの設計者である。
昔は経験則、今はシステム
もちろん、昔のロードレースにも3週間を走る知恵はあった。
強い選手は、どこで脚を使わないかを知っていた。名監督は、どの山岳で勝負すべきかを読んでいた。ベテランは、いつ食べ、いつ休み、どこで無理をしないかを身体で理解していた。
ツール・ド・フランスを勝つには、一日だけ強いだけでは足りない。そのことは昔から分かっていた。
変わったのは、その知恵が経験則からシステムへ移ったことだ。
かつては「あの選手は3週目に強い」「あのチームは調整がうまい」と語られていたものが、今では疲労管理、ピーキング、糖質摂取、高地適応、暑熱順化、睡眠、HRV、耐久性として測定され、管理され、再現されようとしている。
つまり現代ロードレースの進化とは、昔にはなかった能力が突然生まれたというより、かつて名人芸だったものが、チーム全体の勝利システムへ変わっていく過程である。
自転車界の外から来た知見
この流れで重要なのが、自転車界の外から来た知見である。
ロードレースには、もちろん自転車固有の知恵がある。
集団内の位置取り。
風の読み方。
補給の受け取り方。
アシストの使い方。
どこで脚を使い、どこで温存するか。
これはロードレース内部の経験知であり、外部のスポーツ科学だけでは代替できない。
一方で、選手の身体をどう作るかという領域では、水泳、ボート、トライアスロン、運動生理学、栄養学、データ科学の知見が入ってきている。
この流れを見ると、現代ロードレースの有名コーチやパフォーマンス人材には、自転車界の外から来た知見を持つ人物が多いことが分かる。
| 人物 | ロードレースでの主な関係先 | 自転車界の外での背景・強み | ロードレースに持ち込んだもの |
|---|---|---|---|
| ティム・ケリソン | 元チームスカイ/イネオス | 水泳・ボートなど五輪系持久競技のパフォーマンス管理 | ピーキング、出力管理、高地合宿、グランツール仕様の身体作り |
| ダン・ロラン | レッドブル=ボーラ、リドル・トレック | トライアスロン界でも知られる持久系コーチ | 長時間出力、疲労管理、補給、回復、パフォーマンス部門の統合 |
| オラフ・アレクサンダー・ブー | Uno-X | ノルウェーのトライアスロン成功を支えたコーチ | 科学的トレーニング、暑熱対策、補給、耐久系データ活用 |
| イニゴ・サンミラン | 元UAE/ポガチャル周辺 | 運動生理学・代謝研究 | Zone 2、ミトコンドリア、脂質代謝、持久力の土台作り |
| イェルーン・スワート | UAEチーム・エミレーツ | スポーツ医学・パフォーマンス科学 | 栄養、睡眠、HRV、パワーデータ、AI分析の統合 |
| アイター・ビリバイ | イネオスなど | 栄養学・代謝・高糖質摂取 | 高糖質摂取、腸トレ、回復食、補給戦略 |
| ジョン・ウェイクフィールド | レッドブル=ボーラ | スポーツサイエンス、ラボ測定、バイクフィット | トルク練習、測定、育成、データに基づく身体作り |
共通しているのは、彼らが「自転車の走り方」そのものを教える人ではないということだ。
集団内の位置取りや、風の読み方、アシストの使い方は、今もロードレース内部の知恵である。一方で、選手の身体をどう作り、どう回復させ、どう3週目にピークを残すかという領域では、外部の持久系スポーツ科学が大きな役割を果たしている。
水泳やボートは、狙った大会に向けたピーキングに強い。
トライアスロンは、長時間出力、補給、暑熱、胃腸管理に強い。
運動生理学は、代謝、LT、VO2max、ミトコンドリアを扱う。
栄養学は、高糖質摂取、腸トレ、回復を支える。
データ科学は、睡眠、HRV、疲労、パワーを統合して見る。
ロードレースは、自転車だけで速くなったわけではない。
走り方は自転車界の知恵で磨かれ、身体の作り方は持久系スポーツ科学で進化している。
エヴェネプールにとってはプラスか、不安材料か
ヘームスケルク加入は、エヴェネプールにとって明確なプラス材料である。
ヴィンゲゴーを知るコーチが加わることで、エヴェネプールの課題とされてきた「3週間の山岳総合力」を改善できる可能性がある。
実際、エヴェネプールはツール前に約4kgの減量を明かし、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュからツールまでレースに出ず、トレーニングに集中してきた。Cyclingnewsは、この新しいアプローチがヘームスケルクの指導下で進められていると報じている。
これは単なる実戦不足ではなく、ツールへ向けたピーキングの一部とも読める。
一方で、不安材料でもある。
エヴェネプールは移籍1年目で、長年の個人コーチから離れ、レッドブルの体制に入り、さらにロラン退団に伴ってヘームスケルクへ移行する。
新しい知見が加わった一方で、準備体制が完全に成熟しているとは言い切れない。
強化材料であり、不確実性でもある。
これが、今のエヴェネプールをめぐるコーチ交代の本質だ。
選手を獲る時代から、勝利システムを獲る時代へ
ワールドチームの競争は、すでに選手補強だけでは語れない。
もちろん、ポガチャルやヴィンゲゴーのような特別な才能は必要だ。だが、その才能を3週間のグランツールで勝てる形に仕上げるには、コーチ、栄養士、医療、回復、データ、機材、高地合宿まで含めたシステムが必要になる。
リドル・トレックがロランを獲得したのは、まさにその象徴である。レッドブルがヘームスケルクを迎えたのも同じだ。
現代ロードレースでは、強い選手を獲るだけでは足りない。
強い選手を、さらに強く、そして壊さずに走らせる仕組みを持たなければならない。
エヴェネプールのコーチ交代は、その大きな流れの一部である。
表に見えるのは、選手の移籍とレース結果だ。
だが、その裏側では、勝てる身体を作る人材の移動が始まっている。

