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フロリアン・リポヴィッツとは何者か? ツール表彰台を生んだ“持久系スポーツ一家”の育成環境

フロリアン・リポヴィッツとは何者か? ツール表彰台を生んだ“持久系スポーツ一家”の育成環境
Daifuku(ダイフク)

フロリアン・リポヴィッツを知るうえで、最初に見るべき数字はツール・ド・フランス総合3位ではない。

9歳で走った120kmである。

リポヴィッツは9歳のころ、両親とともにオーストリアの「ドライレンダー・ジロ(Dreiländergiro Nauders)」を走った。ドライレンダー・ジロは、オーストリア・チロル州ナウダースを発着点に、オーストリア、イタリア、スイスの3カ国をまたぐ山岳サイクリングイベントである。アルプスの峠を越える本格的なイベントで、120km規模のコースでも獲得標高は約3,000mに及ぶ。

それだけではない。17歳のころには、家族旅行でアルプスやピレネーを自転車で横断していた。ある時は7日間で900km、獲得標高18,000mを走ったという。

父マルク・リポヴィッツ、兄フィリップとともに、この家族旅行で走っていた。兄フィリップは、のちにバイアスロンのジュニア世界王者となる。

つまり、フロリアン・リポヴィッツは突然ロードレース界に現れた選手ではない。

ロードレースでは遅れてきた選手だった。しかし、持久系スポーツの世界では、少年時代からかなり特殊な環境で育っていた選手だったのである。

フロリアン・リポヴィッツ 基本プロフィール

  • 名前:フロリアン・リポヴィッツ(Florian Lipowitz)
  • 生年月日:2000年9月21日
  • 出身:ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州ライヒンゲン
  • 現所属:レッドブル・ボーラ・ハンスグローエ
  • 脚質:クライマー/総合系
  • 主な実績:2025年ツール・ド・フランス総合3位、マイヨ・ブラン獲得
  • 前競技:バイアスロン
  • バイアスロン時代の所属:DAVウルム(DAV Ulm)
  • ロード転向後の主な所属:チロルKTMサイクリングチーム、ボーラ・ハンスグローエ/レッドブル・ボーラ・ハンスグローエ
  • 主な育成環境:オーストリア・チロル州ゼーフェルト、スキーギムナジウム・シュタムス(Skigymnasium Stams)
  • 家族:父マルク・リポヴィッツはバイアスロンのトレーナー資格を持ち、兄フィリップ・リポヴィッツはバイアスロンのジュニア世界王者

第1章 「元バイアスロン選手」では説明しきれない

フロリアン・リポヴィッツは、ロードレース界では遅れて現れた選手である。

ジュニア時代からロード一本で育った選手ではない。UAEチーム・エミレーツのタデイ・ポガチャルや、スーダル・クイックステップのレムコ・エヴェネプールのように、10代のころから自転車界の大物候補として注目されていたわけでもない。

リポヴィッツの競技人生の出発点は、ロードレースではなくバイアスロンだった。

バイアスロンは、クロスカントリースキーと射撃を組み合わせた冬季競技である。長い距離を滑り、心拍数が上がった状態で射撃を行う。持久力だけでなく、回復力、集中力、精神的な安定も求められる。

日本ではなじみの薄い競技だが、リポヴィッツの出身国であるドイツでは事情が違う。バイアスロンは冬季スポーツの人気競技であり、テレビ中継やワールドカップ大会でも大きな注目を集める。ドイツでバイアスロンの有望選手になることは、決して小さな意味ではない。

この競技でリポヴィッツは、少年期から高いレベルにいた。

リポヴィッツはSchüler年代でドイツ王者であった。Schülerはドイツ語で「生徒」を意味し、スポーツのカテゴリでは主に小中学生にあたる若年カテゴリーを指す。

さらにリポヴィッツは、2018年までナショナルカーダーに所属していたとされる。

ナショナルカーダーとは、ドイツの競技連盟が将来性のある選手を選抜する代表育成枠である。すぐにトップ代表という意味ではないが、国内の育成システムの中で有望選手として扱われていたことを示す。

つまりリポヴィッツは、ロードレースに来る前から、ドイツのバイアスロン育成システムの中で競技を続けていた選手だった。

だから、リポヴィッツは「ロードレースに遅く来た選手」ではある。

しかし、「持久系スポーツに遅く来た選手」ではない。

ここを分けて考える必要がある。

ロードレース転向後の急成長は、一見すると突然の成功に見える。だが、彼の体はそれ以前から、長時間の運動に耐える競技で鍛えられていた。バイアスロン時代の練習、家族での長距離ライド、チロルでの生活環境が、ロード選手としての土台になっていた。

だからリポヴィッツを「元バイアスロン選手の異色転向組」とだけ見ると、重要な部分が抜け落ちる。

彼はロードレース界では遅咲きだった。
しかし、持久系スポーツの世界では、少年時代から長く鍛えられてきた選手だったのである。

第2章 リポヴィッツ家という持久系スポーツ一家

フロリアン・リポヴィッツの背景を考えるうえで、家族の存在は外せない。

父マルク・リポヴィッツ、母エヴリン、兄フィリップ。リポヴィッツは「スポーツ一家」に生まれ、幼いころから10代まで常に自転車に乗っていた。

特に大きいのが、父マルクの存在である。

マルクはバイアスロンのトレーナー資格を持ち、息子たちの練習にも関わっていた。単なる送迎係や応援する父親ではなく、競技の中身を理解したうえで、子どもたちのスポーツ環境を支えていた人物だった。

さらにマルク自身も、自転車に深く親しんでいた。熱心なホビーサイクリストであり、その実績は一般的な趣味の範囲には収まらない。

マルクは、スイス東部で行われるエンガディン・ラドマラソンで優勝した経験を持つ。エンガディン・ラドマラソンは、サンモリッツ周辺のアルプスを走る山岳サイクリングイベントである。長距離コースは200kmを超え、獲得標高は3,000m以上。アルブラ峠やフリューエラ峠など、標高2,000m級の峠を越える本格的な山岳ルートだ。

その大会で優勝するということは、単に「自転車が好きな父親」というレベルではない。少なくとも、山岳系グランフォンドで上位を争える強いアマチュアサイクリストだったと見てよい。

つまり、フロリアンにとって父は、競技を見守る大人であると同時に、一緒に峠を走る相手でもあった。

兄フィリップ・リポヴィッツもまた、重要な存在である。

フィリップはフロリアンの1歳上で、バイアスロン選手として競技を続けた。2021年にはジュニア世界選手権で優勝し、ジュニア世界王者となっている。

弟フロリアンは、のちにロードレースへ進んだ。兄フィリップは、雪上に残った。同じ家庭で育った兄弟が、別々の競技で世界レベルに到達したことは、この家庭のスポーツ環境を考えるうえで大きな意味を持つ。

母エヴリンは、家族の遠征を支える存在だった。

リポヴィッツ家が休暇中にアルプスやピレネーを自転車で横断していたことが、その際、父マルク、フロリアン、兄フィリップが自転車で走り、母エヴリンは車で同行していた。

7日間で900km、獲得標高18,000mに及ぶような家族旅行は、走る側だけで成り立つものではない。移動、補給、荷物、休憩場所。そうした部分を支える人がいて初めて成立する。

リポヴィッツ家では、スポーツは子どもだけのものではなかった。

父が練習を理解し、兄が同じ競技で高いレベルを目指し、母が遠征や生活を支える。そうした環境の中で、フロリアンは育った。

だから、リポヴィッツ家から兄弟二人の世界レベルの持久系アスリートが出たことは、偶然だけでは説明しにくい。

フロリアン・リポヴィッツの強さを見るなら、本人の才能だけでなく、この家族全体を見る必要がある。

第3章 9歳で120km、家族旅行で900km

リポヴィッツ家の特殊さは、具体的な距離を見ると分かりやすい。

フロリアン・リポヴィッツは9歳のころ、両親とともにオーストリアのドライレンダー・ジロを走った。ドライレンダー・ジロは、オーストリア、イタリア、スイスの3カ国をまたぐ山岳サイクリングイベントである。

距離は120km。獲得標高も約3,000mに及ぶ。

大人でも簡単な距離ではない。しかも平坦な道を走るイベントではない。ステルヴィオ峠などを含むアルプスの峠を越える。

9歳の子どもが、両親とともにその距離を走る。これだけでも、リポヴィッツ家では自転車がかなり身近な存在だったことが分かる。

さらに、休暇中に家族でアルプスやピレネーを自転車で横断していた。ある時は、7日間で900km、獲得標高18,000mを走ったという。当時のフロリアンは17歳だった。

900kmという距離は、東京から広島を越えて、さらに先まで進むほどの距離である。それを1週間で走る。しかも舞台はアルプスやピレネーであり、平坦な観光道路ではない。

この家族旅行では、父マルク、フロリアン、兄フィリップが自転車で走り、母エヴリンが車で同行した。家族旅行というより、小さな遠征に近い。

一般的な家庭では、休暇は体を休める時間である。リポヴィッツ家では、休暇もまた長距離を走る時間だった。

ここで重要なのは、単に距離が長いことではない。

長距離を走ることが、特別な練習としてではなく、家族の時間として組み込まれていたことである。峠を越えること、長い距離を走ること、翌日もまた走ること。それが、フロリアンにとって幼いころから身近な経験だった。

もちろん、ツール・ド・フランスで総合3位に入る力は、家族旅行だけで説明できるものではない。

それでも、9歳で120kmを走り、10代で家族とアルプスやピレネーを越えていた経験は、彼の持久力や山岳への感覚を考えるうえで無視できない。

リポヴィッツにとって、自転車はロードレースに転向してから急に現れたものではなかった。

幼いころから家族の時間の中にあり、生活の中に組み込まれていたのである。

第4章 雪を求めてチロルへ

リポヴィッツ家の本気度は、自転車旅行だけではない。

フロリアン・リポヴィッツは、もともとバイアスロン選手として育っていた。バイアスロンを本格的に続けるには、雪上での練習環境が欠かせない。

しかし、出身地であるドイツ南西部のライヒンゲン周辺では、十分な雪上環境を確保することに限界があった。

そこでリポヴィッツ家は、生活の場所を変えた。

2015年、フロリアンは家族とともに、ライヒンゲンからオーストリア・チロル州のゼーフェルトへ移った。ゼーフェルトはクロスカントリースキーやバイアスロンの盛んな地域であり、冬季スポーツの環境が整っている。

フロリアンはその後、スキーギムナジウム・シュタムス(Skigymnasium Stams)で学んだ。スキーギムナジウム・シュタムスは、オーストリアの冬季スポーツ名門校である。学業と競技を両立しながら、若い選手が本格的にトレーニングを積むための環境がある。

雪が足りなければ、雪のある場所へ行く。

言葉にすると単純だが、実際には簡単なことではない。子どもの競技環境のために、家族の生活拠点を変える必要があるからだ。

この移住は、リポヴィッツが単に「スポーツ好きの家庭」で育ったわけではないことを示している。家族は、競技を続けるために必要な環境を実際に選び取り、生活を変えていた。

この時点で、フロリアンはロードレーサーではなかった。

目指していたのは、あくまでバイアスロンの世界である。だが、チロルでの生活、雪上競技の練習、そしてアルプスに近い環境は、後にロードレースへ進むうえでも大きな下地になった。

リポヴィッツの山岳適性は、ロードレースに転向してから急に生まれたものではない。

彼は10代のころから、山と雪と長距離の中で育っていた。

第5章 怪我で閉じたバイアスロン、開いたロードレース

リポヴィッツは、バイアスロンで順調に伸び続けたわけではない。

才能はあった。環境もあった。家族の支えもあった。それでも、競技人生はまっすぐには進まなかった。

大きかったのが、怪我である。

成長期には、膝のオスグッドにも悩まされていた。

クロスカントリースキーやバイアスロンのように、脚への負担が大きい競技では、膝の問題は競技継続に直結する。

さらに、2019年にはカイトサーフィン中に前十字靭帯を断裂した。

この怪我によって、バイアスロンの練習を十分に行うことが難しくなった。一方で、膝の負担が少ない自転車でのトレーニングは続けることができた。

ここで、リポヴィッツの中で自転車の位置づけが変わっていく。

もともと自転車は、家族旅行や夏季トレーニングの中にあった。だが、怪我によって雪上競技に制約が出ると、自転車は単なる補助ではなく、競技としての選択肢になっていった。

当時すでにリポヴィッツは年間数千キロを自転車で走っており、自分に才能があることをはっきり意識するようになっていたようだ。

実際、彼はサイクリングマラソンや山岳系のアマチュアイベントで結果を出し始めた。年上の強い選手たちについていき、やがて勝利も挙げるようになる。

怪我は、競技者としては明らかな痛手だった。しかし、それによって自転車に乗る時間が増えた。ロードレースでの適性も見えてきた。

バイアスロンの道が細くなった一方で、ロードレースへの道が少しずつ開いていったのである。

第6章 山岳イベントで見えたロードの才能

自転車に乗る時間が増えると、リポヴィッツの適性はすぐに結果として表れ始めた。

彼が最初に力を示したのは、プロのロードレースではない。サイクリングマラソンや山岳系のアマチュアイベントだった。

リポヴィッツが自分よりはるかに年上のトップ選手たちに長くついていけるようになり、やがて勝利を挙げるようになった。

その代表例が、2019年のエンガディン・ラドマラソンである。

エンガディン・ラドマラソンは、スイス東部のサンモリッツ周辺を走る山岳サイクリングイベントだ。リポヴィッツが勝った2019年のコースは214km、獲得標高3,800m。アルプスの峠を越える長距離山岳ルートだった。

リポヴィッツはこの大会で優勝した。タイムは6時間9分32秒。コースレコードだった。

ただ、この大会で面白いのは、フロリアンだけではない。

同じ大会には、父マルクと兄フィリップも出場していた。RSV Forchheimのレポートによれば、父マルクは総合12位で年代別2位、兄フィリップも総合24位に入っている。

214kmの山岳イベントで、父、兄、弟がそろって上位に入る。

ここまで来ると、リポヴィッツ家を「自転車好きの家族」とだけ呼ぶのは難しい。

リポヴィッツがオッツターラー・ラドマラソンをトレーニングとして走っていた。

オッツターラー・ラドマラソンは、オーストリア・チロルを舞台にした欧州屈指の山岳サイクリングイベントである。距離は約227km、獲得標高は約5,500mに及ぶ。

普通なら、完走だけでも大きな目標になるイベントである。

だがリポヴィッツにとっては、それもトレーニングの一部だった。

ここまで来ると、ロード転向は単なる思いつきではない。

バイアスロンで培った持久力。家族旅行で積み重ねた長距離ライド。怪我によって増えた自転車トレーニング。そして、山岳イベントでの結果。

それらが重なり、ロードレースという選択肢が現実味を帯びていった。

第7章 父マルクがダン・ローランに声をかけた

山岳イベントで結果を出しても、それだけでプロロード選手になれるわけではない。

リポヴィッツには、ロードレースの正式な競技経験がなかった。バイアスロンで育ち、長距離の自転車イベントでは強さを見せていたが、それをプロチームがどう評価するかは別の問題である。

ここで大きな役割を果たしたのが、父マルクだった。

ロード転向につながるきっかけとして、父マルクとダン・ローランの接点があった。

舞台は、2019年のドイツ夏季バイアスロン選手権だった。

この大会の会場で、マルクはローランに声をかけたという。フロリアンはバイアスロンでは怪我に悩まされていた。一方で、自転車ではすでに強さを見せ始めていた。父マルクは、その適性を見逃していなかった。

ただし、声をかけた相手が普通ではなかった。

ローランは当時、ボーラ・ハンスグローエのパフォーマンス部門に関わっていた人物である。さらに、ロードレースだけでなく、バイアスロンにも関わってきたコーチだった。

ローランは、持久力、回復力、データをもとに選手の能力を見極めるタイプの指導者だった。

だからこそ、リポヴィッツのような元バイアスロン選手の能力を、単なる異色の経歴としてではなく、ロードレースに転用できる可能性として見ることができた。

その後、リポヴィッツはパフォーマンステストを受けることになる。

このテスト結果が非常に優れており、それがオーストリアのコンチネンタルチームとの契約につながることとなった。つまり、ロードレース経験の少なさを、数値とポテンシャルで補った形である。

そのチームが、チロルKTMサイクリングチームだった。

チロルKTMは、オーストリアを拠点とするコンチネンタルチームである。ワールドツアーチームではないが、若い選手がロードレースの実戦経験を積むには重要なステップになる。

実際、チロルKTMは多くの選手を上位カテゴリーへ送り出してきた。パトリック・コンラッド、ルーカス・ペストルベルガー、グレゴール・ミュールベルガー、ゲオルク・ツィマーマンらも、このチームを経てワールドツアーやプロチームへ進んでいる。

つまりチロルKTMは、単なる小規模チームではない。オーストリア周辺の若手にとって、上のカテゴリーへ進むための育成チームとして機能してきた存在である。

リポヴィッツはここで、自転車イベントの強い選手から、ロードレースの選手へと移っていく。

この流れを見ると、父マルクの役割はかなり大きい。

家族旅行で一緒に走った父。バイアスロンのトレーナー資格を持つ父。エンガディン・ラドマラソンで優勝経験を持つ父。

その父が、息子の自転車適性に気づき、夏季バイアスロンの会場でダン・ローランに声をかけた。

偶然そこに有力コーチがいた、だけではない。マルクには、声をかけるだけの根拠があった。息子がどれだけ走れるのかを、誰よりも近くで見ていたからである。

フロリアン・リポヴィッツのロード転向は、本人の才能だけで進んだわけではない。

その才能を見せる場所を作った人がいた。

父マルクは、その入口を開いた人物だった。

第8章 チロルKTMからボーラへ

チロルKTM加入は、リポヴィッツにとって大きな転換点だった。

それまでのリポヴィッツは、バイアスロン出身で、山岳系サイクリングイベントに強いアマ選手だった。だが、ロードレースはそれだけでは戦えない。

集団内での位置取り、補給、レース展開の読み、チームメイトとの連携。ロードレースには、単純な持久力だけでは説明できない技術がある。

リポヴィッツは、チロルKTMでその世界に入っていった。

彼の特徴は、最初から明確だった。長い登りに強い。長時間の負荷に耐えられる。バイアスロンで培った持久力と、家族旅行や山岳イベントで積み重ねた走行経験は、ロードの山岳ステージでも武器になった。

一方で、ロード選手としては遅れていた。

ジュニア時代からロードレースを走ってきた選手とは違い、リポヴィッツにはレース経験の蓄積が少なかった。つまり、エンジンはある。しかし、ロードレースの走り方は学ぶ必要があった。

その意味で、チロルKTMはちょうどよい場所だった。

いきなりワールドツアーの中に入るのではなく、コンチネンタルチームで実戦を積む。山岳での強さを見せながら、ロードレースの基本を覚えていく。リポヴィッツはそこで、単なる「自転車が強い元バイアスロン選手」から、ロードレースの選手へと変わっていった。

そして、その先にボーラ・ハンスグローエがあった。

ボーラは、リポヴィッツにとって偶然の移籍先ではない。ダン・ローランとの接点があり、ドイツ語圏のチームであり、さらに山岳や総合系の選手を育てる環境もあった。

リポヴィッツは2023年、ボーラ・ハンスグローエに加わった。

ここから、彼の立場は大きく変わる。

アマチュア色の強い山岳イベントで勝つ選手ではなく、ワールドツアーの集団で走る選手になる。相手は各国のトップ選手であり、レースの強度も、チーム内で求められる役割も一気に上がる。

それでも、リポヴィッツの強みは消えなかった。

長い登りで崩れにくい。高い負荷を長く維持できる。バイアスロン出身らしい持久力と安定感は、ロードレースの中でも武器になった。

チロルKTMは、リポヴィッツにとってロードレースへの入口だった。

ボーラは、その才能を本格的に試す場所だった。

第9章 ブエルタで見えた総合力

ボーラ・ハンスグローエに加わったリポヴィッツは、すぐにチームの中心選手になったわけではない。

ワールドツアーでは、強い若手であっても、まずはチームの中で役割を覚える必要がある。エースを守る。山岳で人数を残す。必要な場面でペースを作る。自分の成績だけでなく、チーム全体の結果のために走る。

リポヴィッツも、その中で経験を積んでいった。

大きな転機になったのが、2024年のブエルタ・ア・エスパーニャだった。

この大会でボーラ・ハンスグローエのエースは、プリモシュ・ログリッチだった。ログリッチはブエルタを何度も制してきたグランツールの名手であり、チームは総合優勝を狙う立場にあった。

リポヴィッツは、そのログリッチを山岳で支える役割を担った。

これは簡単な役割ではない。

グランツールの山岳ステージでは、ペースが上がるたびに集団から選手が減っていく。エースの近くに残るには、自分自身にも高い登坂力が必要になる。単にチームメイトだから残れるわけではない。

リポヴィッツはそこで、最後まで残れる力を見せた。

しかも、ただアシストとして走っただけではない。自身も総合上位に入り、グランツールの3週間を戦える選手であることを示した。

ここが重要だった。

1日だけ山を速く走れる選手はいる。短いステージレースで目立つ若手もいる。しかし、グランツールで問われるのは、3週間崩れない力である。疲労が積み重なり、毎日コンディションが変わり、山岳、平坦、移動、暑さ、チーム戦術が続く。

リポヴィッツは、その環境で総合系選手としての可能性を示した。

バイアスロンで培った持久力。山岳イベントで見せた長距離耐性。チロルKTMで積んだロードレース経験。それらが、ブエルタの3週間で一つにつながった。

この時点で、リポヴィッツはもう「元バイアスロン選手の面白い転向例」ではなかった。

ワールドツアーの山岳でエースを支え、自分自身も総合上位を狙える選手になっていた。

そしてこのブエルタが、翌年のツール・ド・フランスへつながっていく。

第10章 ツール・ド・フランスで証明したもの

2025年、フロリアン・リポヴィッツはツール・ド・フランスで総合3位に入った。

さらに、若手総合賞であるマイヨ・ブランも獲得した。

ロードレースに本格転向してから、それほど長い時間が経っていたわけではない。ジュニア時代からロード界で注目されてきた選手ではなく、バイアスロンから転向してきた選手である。

それでも、リポヴィッツはツール・ド・フランスの3週間で総合表彰台に立った。

この結果だけを見ると、突然現れた新星に見えるかもしれない。

だが、2025年のツールで起きていたことは、単なる若手の快進撃ではなかった。

リポヴィッツは、レッドブル・ボーラ・ハンスグローエの一員としてツールを走った。チームにはプリモシュ・ログリッチという実績ある総合エースがいた。ログリッチはブエルタを何度も制し、グランツールの勝ち方を知る選手である。

そのチームの中で、リポヴィッツは自分自身の総合順位を上げていった。

山岳で遅れず、3週間を通して大きく崩れない。総合系選手に必要な力を、ツールという最も厳しい舞台で示した。

象徴的だったのが、山岳ステージでの走りである。

ログリッチが苦しむ場面でも、リポヴィッツは上位陣の近くに残った。若いアシストがエースを支えるだけではなく、チーム内で新しい総合候補として存在感を強めていく。2025年のツールは、リポヴィッツにとってその転換点になった。

そして、リポヴィッツのツールには、家族の姿もあった。

母エヴリンと父マルクは、キャンピングカーでツールを追いかけていた。2人はできるだけステージ終盤の沿道に立つようにしていたという。ゴールに近い登りでは選手のスピードが落ちるため、息子に声が届きやすいからである。

そこで両親が叫んでいたのが、「Ziiiiieh」だった。

これは冬季スポーツで使われる掛け声で、リポヴィッツがバイアスロンをしていたころにも、両親はこの声で息子を応援していたという。

子どものころ、母エヴリンは家族の自転車旅行を車で支えていた。父マルク、兄フィリップ、フロリアンがアルプスやピレネーを走る横で、車で同行していた。

それから何年も経ち、舞台は家族旅行からツール・ド・フランスに変わった。

それでも構図はどこか似ている。

父と母は、今度はキャンピングカーでツールを追いかけ、沿道から「Ziiiiieh」と声を飛ばしている。バイアスロン時代の声援が、ツール・ド・フランスの山岳ステージでも続いていたのである。

リポヴィッツの総合3位は、本人の才能と努力の結果である。

だが、それは何もないところから突然生まれたものではない。

バイアスロンで鍛えられ、家族とともに山を走り、チロルの環境で育った。怪我によって自転車の比重が高まり、山岳イベントで結果を出し、父マルクがダン・ローランに声をかけた。そこからチロルKTMを経てボーラへ進み、ブエルタで総合力を見せ、ツールで表彰台に届いた。

こうして見ると、リポヴィッツのツール総合3位は、単なる偶然の成功ではない。

ロードレースでは遅れてきた選手だった。
しかし、持久系スポーツでは長く鍛えられてきた選手だった。

フロリアン・リポヴィッツの強さは、バイアスロン、自転車、家族、チロルの環境、そしてロード転向後の育成ルートが重なって生まれたものだった。

だから、彼を「元バイアスロン選手の異色転向組」とだけ見るのは、少しもったいない。

リポヴィッツは、突然ロードレース界に現れた選手ではない。

持久系スポーツ一家の中で育ち、山と雪の環境で鍛えられ、ロードレースへたどり着いた選手だったのである。

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